磯節
日本三大民謡でもある茨城県を代表する民謡「磯節」。
北海道の「江差追分」
九州の「博多節」
そして茨城県の「磯節」
が日本三大民謡と言われている。
難しい順で選ばれている、との説もある。
「磯節」が今日のような曲態になるまでには多くの人の手を経ている。
大洗の祝町が華やかだった頃、引き手茶屋の主人渡辺精作(芸名竹楽房)が手を加え、
那珂湊の芸妓置屋芸多満(げたまん)の主人矢吹萬助が、娘芸妓の金太・小六・とん子と
高安の町子らを連れて、東京で「磯節」、「大漁節」、「水戸二上り」を披露している。
同じ頃、磯浜に関根安中(せきねあんちゅう)がいて、「磯節」をよくし、
「安中節」として親しまれた。
以来、「磯節」は磯浜で、那珂湊で、水戸でそれぞれ成長している。
伝統が長いだけに、歌詞も次々と作られ、現在は50を超える。
那珂湊の「磯節」は、芸多満(げたまん)の芸妓や谷井法童によって大成への道が開けた。
谷井法童は「磯節の父」とも言われている。
前述の関根安中(本名・関根丑太郎)は19歳で半盲となり漁夫をやめてからは、
あんまとして働いていた。
安中は「磯節」の名手で、明治40年頃の本県出身の横綱「常陸山」に愛され、
巡業先で「磯節」を唄った。
「磯節」が全国に広まったのは、常陸山に各地に連れ歩かれて唄った安中の「磯節」によるものだ、
と考えられている。
安中が鷲印レコードに「磯節」を吹き込んだ時には、常陸山はそのレコードをほとんど買い占め、
それを行く先々で配り宣伝したという。
「磯節全国大会」は予選が二日間、決戦会が一日と、計三日間かけて開催される。
毎年2月第1土日が予選会、2月11日(祝日)が決戦会である。
全国から約500人の参加者がおり、全国の民謡大会の中でもその規模は1,2位を争う。
〽磯で名所は大洗様よ(ハーサイショネ)
松が見えます ほのぼのと(松がネ)
見えますイソほのぼのと(ハーサイショネ)
〽水戸を離れて東へ三里 波の花散る大洗
花散る イソ 大洗
磯節の歌詞(抜粋)
〽磯で名所は 大洗さまよ 松が見えます ほのぼのと (松がネ)
見えますイソ ほのぼのと
〽三十五反の 帆をまきあげて 行くよ仙台 石巻 (行くよネ)
仙台イソ 石巻
〽ゆらりゆらりと 寄せてはかえす 波の瀬に乗る 秋の月 (波のネ)
瀬に乗るイソ 秋の月
〽船はちゃんころでも 炭薪ゃ積まぬ 積んだ荷物は 米と酒 (積んだネ)
荷物はイソ 米と酒
〽荒い波風 やさしく受けて 心動かぬ 沖の石 (こころネ)
動かぬイソ 沖の石
〽沖で鰹の 瀬の立つ時は 四寸厚みの 櫓がしなう (四寸ネ)
厚みのイソ 櫓がしなう
〽親のない子と 浜辺の千鳥 日さえ暮れれば しをしをと (日さえネ)
暮れればイソ しをしをと
〽君と別れて 松原行けば 松の露やら 涙やら (松のネ)
露やらイソ 涙やら
〽心残して 湊の出船 揚がる碇に すがる蟹 (揚がるネ)
碇にイソ すがる蟹
〽潮風吹こうが 波荒かろう 操かえない 浜の松 (操ネ)
かえないイソ 浜の松
〽泣いてくれるな 出船の時にゃ 沖じゃ櫓櫂が 手につかぬ (沖じゃネ)
櫓櫂がイソ 手につかぬ
〽船底枕に 寝る浜千鳥 寒いじゃないかよ 波の上 (寒いじゃネ)
ないかよイソ 波の上
〽水戸を離れて 東へ三里 波の花散る 大洗 (波のネ)
花散るイソ 大洗
〽水戸の梅が香 どこまで香る 雪の桜田 御門まで (雪のネ)
桜田イソ 御門まで
〽水戸で名所は 偕楽園よ 梅と躑躅に 萩の花 (月のネ)
眺めはイソ 千波沼
〽月の姿に ついほだされて 鳴くや千波の 渡り鳥 (鳴くやネ)
千波のイソ 渡り鳥
〽深き思いの あの那珂川に 水に焦がれて のぼる鮭 (恋はネ)
浮名をイソ 流し網
〽春の出初めに 白帆が三艘 初め大黒 なか恵比須 (あとのネ)
白帆はイソ よろずよし
〽沖で鰹の 瀬の立つ時は 四寸厚みの 櫓がしなう (四寸ネ)
厚みの 櫓がしなう
〽色はまっ黒でも 釣り竿持てば 沖じゃ鰹の 色男 (沖じゃネ)
鰹の 色男
水戸大津絵節
「水戸大津絵節」は鈴木甕水(本名・鈴木豊次)が作詞をし、
「水戸黄門記」「曽我の夜討ち」「水木村の山大殿」がある。
滋賀県大津の大津絵が大津絵節になる経緯については次のように言われている。
大津絵に描かれた人物を主題とした浄瑠璃、所作事が舞台でしばしば上演されたのに伴い、
それにまつわる俗謡が大津の柴屋町の遊郭で唄いだされた。
大津絵節の名称は元唄の歌詞から出たもので、
幕末の頃、全国的に流行してそれぞれ替え文句が作られ、唄いはやされたという。
このように滋賀県大津に発生した大津絵節は全国的な流行に伴い、各地に伝播、定着し、
曲風がそれぞれ変化し。歌詞も土地となりのものが作られた。
福島県会津地方の「大津絵」のように祝いの唄として用いている土地も少なからずあり、
九州地方のように「おちえ」とか「おちあ」などと訛って、原調とかけはなれた別の唄に
変化して唄われている土地もある。
さて、「水戸大津絵」に寄せて鈴木豊次は次のように書いている。
「ここに大義名分の発祥地として天下に知られた水戸の名君光圀公の勧善懲悪の国巡り黄門記の一節を、
作詞編曲独特の節調で「水戸大津絵」としたもので、本謡を通し名君黄門様の偉業美徳を讃え、
善政を偲び、民族精神昴揚の一助ともなれば、望外の喜びとするものである。」
「水戸大津絵」は、曲節が変化に富み技巧的であるが、節に安定感があり美しい曲である。
「水戸大津絵」(水戸黄門記)
〽徳川太平三百年 水戸は代々副将軍 黄門様で名も高き
名君二代目光圀公 国の善政は人よりと 助さん格さん共に連れ
勧善懲悪国巡り (ハーキタサー)
悪代官やならず者 うちこらし 悔悟の涙流さしむ
今が世までも語り草 水戸黄門漫遊記
茨城船甚句
(いばらきふなじんく)
山形七之介、石澤竹楽、小野崎加道、青木靖月らが、「網のし唄」を発表したのち、
古老などから聞き込みを行い構想を練って作ったのがこの「茨城船甚句」である。
大洗文化センター前、磯浜海岸に面して「船甚句」の碑が立てられている。
その碑面に由来が刻まれている。
「この唄は、大洗海岸をはじめ、三浜地方で昔から唄われてきた「網のし唄」の元唄と言われております。
戦後水産加工業を営む傍ら本場磯節保存会の会員として活躍していた古老山形七之介翁がよくこの〈船甚句〉を愛唄していました。
現在のような機械船にならない時代、漁師が漁労のために漁船を操り、漁場と港の往復に櫓を操りながら唄った〈櫓漕ぎ唄〉と言われています。
もともと題名のなかったこの唄に、
昭和23年春、本場磯節保存会の石澤竹楽会長が【茨城船甚句】と名付け、昔から唄われていた歌詞に、
「朝も早よから 出船の支度 港大漁で マネ揃い」という歌詞を補作し、以来全国の民謡愛好家に唄われるようになりました。
この唄は、はじめは「船甚句」であったが、のち「那珂湊船甚句」となり、さらに「茨城船甚句」となった。
海の男の唄で活発に力強く唄う。
お囃子の「コイショ」は往時の船漕ぎのさまをしのばせる。
「船甚句」は「網のし唄」の元唄と記されているが、その源流は宮城県の海上に唄われる「遠島甚句」である。
都々逸(どどいつ)
俗曲の一種。歌詞から受ける印象によって情歌(じょうか)ともいう。
江戸末期から明治にかけて愛唱された歌で、七・七・七・五の26文字でさえあれば、どのような節回しで歌ってもよかった。
現今の節は、都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の曲調が標準になっている。
都々逸は天保9 (1838) 年8月1世都々逸坊扇歌が寄席で唄ったのを機として流行したといわれる。
都々逸の創始者とされる都々逸房扇歌は常陸太田市磯部町に生まれた。
都々逸房扇歌の功績を讃え、昭和32(1957)年5月5日に扇歌の生誕155周年を記念して、地元の有志たちが石碑を建立した。
碑のかたわらには、『都々逸房扇歌』の著者で、
評論家としても有名な木村毅が書したとされる
「磯部たんぼのばらばら松は 風も吹かぬに 気がもめる」との歌が記された歌碑があり、一層の趣を添えている。
三千世界の カラスを殺し
主と朝寝が してみたい
の歌詞は有名だが、作者が幕末の志士の高杉晋作だと言われている。
いろんな解釈があるが、
「三千世界」・・・この世の中のすべて
「カラス」・・・片付けなければならない厄介な問題や、色々と面倒な諸事万端の喩え
「主」・・・愛するあなた
という解釈が妥当だろう。
これは、遊女に対して客の男が唄ったかもしれないし、
解釈の仕方では、遊女が客に対して唄った、のかもしれない。
後者だと、遊女からこの唄を詠んでもらった高杉晋作が、
「いい唄だったなぁ」と何度も道すがら口ずさんでいる姿がなんとも情緒があっていい。
毎年11月には常陸太田市で「都々逸全国大会」が常陸太田市で開催されている。
▶都々逸を動画で聴いてみる
水戸盆唄の歌詞
【水戸盆唄歌詞】
〽男ヨ 伊達なら(コラショ) あの那珂川の(チョイサー チョイサー)
水のヨ 流れを(コラショ) アレサヨ 止めてみな(チョイサー チョイサー)
〽水のヨ 流れを(コラショ) 止めよじゃ止まる(チョイサー チョイサー)
止めてヨ 止まらぬ(コラショ) アレサヨ 恋の路(チョイサー チョイサー)
〽西はヨ つくばね(コラショ) 東は那珂よ(チョイサー チョイサー)
月はヨ お城の(コラショ) アレサヨ 大やぐら(チョイサー チョイサー)
〽踊るヨ 娘に(コラショ) 恋歌かけて(チョイサー チョイサー)
月にヨ とかせる(コラショ) アレサヨ ほおかむり(チョイサー チョイサー)
〽那須のヨ 与一は(コラショ) 三国一よ(チョイサー チョイサー)
男ヨ 自慢で(コラショ) アレサヨ 旗頭(チョイサー チョイサー)
〽水戸でヨ 名所は(コラショ) 偕楽園よ(チョイサー チョイサー)
雁もヨ わたるか(コラショ) アレサヨ 千波沼(チョイサー チョイサー)
〽水戸のヨ 盆唄(コラショ) 日の本一よ(チョイサー チョイサー)
天下ヨ とるよな(コラショ) アレサヨ バチさばき(チョイサー チョイサー)
〽踊れヨ 唄えよ(コラショ) 夜が明けるまで(チョイサー チョイサー)
響くヨ 太鼓に(コラショ) アレサヨ 月がさす(チョイサー チョイサー)
〽踊りヨ 踊らば(コラショ) しなよく踊れ(チョイサー チョイサー)
しなのヨ よい娘を(コラショ) アレサヨ 嫁にとる(チョイサー チョイサー)
〽唄もヨ 続くが(コラショ) 踊りも続く(チョイサー チョイサー)
月のヨ 明るい(コラショ) アレサヨ 夜も続く(チョイサー チョイサー)
【水戸盆唄 千波編】 (芝間美喜夫作詞)
〽梅のヨ 偕楽(コラショ) お堀の桜(チョイサー チョイサー)
ホタルヨ 舞い飛ぶ(コラショ) アレサヨ 逆川(チョイサー チョイサー)
〽ここはヨ 千波の(コラショ) 太鼓が響く(チョイサー チョイサー)
踊れヨ 盆唄(コラショ) アレサヨ にぎやかに(チョイサー チョイサー)
〽響けヨ 朝まで(コラショ) 盆の笛太鼓(チョイサー チョイサー)
これがヨ 千波衆の(コラショ) アレサヨ 心意気(チョイサー チョイサー)
〽水戸のヨー 千波は(コラショ) 住みよいところ(チョイサー チョイサー)
厚いヨ 人情の(コラショ) アレサヨ 花が咲く(チョイサー チョイサー)
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篠山木挽き唄
茨城県石毛町の篠山地方は昔は森林地帯で
「ここは篠山 木挽きの里よ 昔ぁ殿様鹿狩りによー」
と唄われているように山も深かったという。
殿様の鹿狩りの話は、
延宝年間(1673年~1680年)水戸2代藩主徳川光圀がこの地方で鹿狩りをしたという言い伝えを唄うものである。
木挽き唄では、のこぎりで木を挽く時の音を掛け声に使っている、
この「篠山木挽唄」では「ゼイコン ゼイコン」とかけているが、
「奥久慈木挽唄」では「ザラコン ザラコン」、
秩父地方や上州地方の木挽唄では「シャリンコ シャリンコ」
「南部木挽唄」は「ゴスリン ゴスリン」
などがあり多様である。
篠山木挽き唄全国大会は、石下町で毎年11月に開催されている。
篠山木挽き唄
〽(ハアー ゼイコン ゼイコン)
ハアーここは篠山(ハー ドッコイ)
ハアー木挽きの里よ (ハアー ゼイコン)
昔しゃ殿様ヨ アレヨ鹿狩りによ (ハアー ゼイコン ゼイコン)
〽(ハアー ゼイコン ゼイコン)
ハアーゼイコンゼイコンと(ハー ドッコイ)
ハアー引き出すおがはヨ (ハアー ゼイコン)
黄金交じりのヨ アレヨおがが出るよ (ハアー ゼイコン ゼイコン)
〽(ハアー ゼイコン ゼイコン)
ハアー木挽き山家は(ハー ドッコイ)
ハアー山にも住めどヨ (ハアー ゼイコン)
手鍋下げるもヨ アレヨ心からかヨ (ハアー ゼイコン ゼイコン)
〽(ハアー ゼイコン ゼイコン)
ハアー声はすれども(ハー ドッコイ)
ハアー姿は見えぬヨ (ハアー ゼイコン)
ほんに主さんはヨ アレヨほだの陰かヨ (ハアー ゼイコン ゼイコン)
都々逸の歌詞(抜粋)
〽三千世界の烏をころし 主と朝寝がしてみたい(高杉普作)
〽恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす
〽いやなお客の親切よりも 好いたあなたの無理がよい
〽都々逸っあ 下手でもやりくりゃ上手 今朝もななつ屋でほめられた
〽お酒飲む人しんから可愛い 飲んで管巻きゃなお可愛い
〽夢に見るょじゃ惚れよが足りぬ ほんに惚れたら眠られぬ
〽惚れて通えば千里も一里 逢わずにもどればまた千里
〽酒を飲む人花ならつぼみ 今日もさけさけ明日もさけ
〽君は吉野の千本ざくら 色香よいけどきが多い
〽こうしてこうすりゃこうなるものと 知りつつこうしてこうなった
〽三味線枕に あなたとふたり バチがあたるまで 寝てみたい
〽おまえ百までわしゃ九十九まで ともに白髪のはえるまで
〽一富士二鷹の夢にも勝る 会えぬあなたに 会うた夢
〽あの人の どこがいいかと 尋ねる人に どこが悪いと 問い返す
〽ぬしと私は 玉子の仲よ わたしゃ白身で きみを抱く
〽惚れた数から 振られた数を 引けば女房が 残るだけ
〽雪の降る夜は来ないでおくれ かくしきれない下駄のあと
〽恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす
〽たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
〽諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
〽白鷺が小首かしげて二の足踏んで やつれ姿が水鏡
〽笹のお船と 松葉の船頭 乗せるお客は 梅の花
網のし唄
「網のし唄」は県内はもとより全国に知られ、「磯節」とともに茨城県を代表する民謡となっている。
那珂湊市平磯町はかつて茨城県有数の漁港を持ち、マグロ、カツオ、サンマ、イワシなど漁獲が多かった。
漁には、小目網、中目網、大目網の三種が用いられ、それぞれの網は染色の関係で緩く編んでおき、
使用する際に浜や芝生に広げて、2,30人が両方から引き合って網の目を締めた。
これを「目締め」とか「目のし」と言った。
平磯町は、藩政時代から、櫓漕ぎ唄とか甚句とか呼ばれて唄われた唄があり、
平磯住民の生活の唄として、盆踊りにも土搗きにも、船を漕ぐときにも唄われていた。
そして、目のしの際にはこの「網のし唄」が唄われ、
しだいに動作に合った文句や節が定着して「目締め唄」とか「網のし唄」とか呼ばれるようになった。
石澤竹楽や谷井法童により改良され、現在の唄になっている。
現在、唄い始めに「ハー」が入るものと入らないものがある。
唄い方はちょっと違うが、曲調はほとんど変わらない。
網のし唄(歌詞)
〽のせやのせのせ 大目の目のし
のせばのすほど アレサ目がしまる
〽わたしゃ湊の 荒浜そだち
波も荒いが アレサ気も荒い
〽小間も十四も 大目の網も
切れりゃ網師の アレサ手にかかる
〽押せや押せ押せ 二丁櫓で押せや
押せば湊が アレサ近くなる
〽沖の瀬の瀬で どんと打つ波は
みんなあなたの アレサ度胸さだめ
磯原節
童謡「七つの子」や「シャボン玉」、「赤い靴」などを作詞した野口雨情が作詞を手がけた民謡。
雨情は「北原白秋」、「西城八十」とともに、童謡の三大詩人と言われた。
大正の末期、大北川に船を浮かべて清遊し、感興が湧き「磯原節」を作ったという。
磯原町は北茨城市の中心市街地で、磯原炭鉱が操業していた頃は、町に活気があふれ花街も栄えていたといわれる。
磯原の海岸は景勝の地で、夏は海水浴場としてにぎわう。
光圀が天妃神をまつったという天妃山が海中に突き出し、その北方には2つの島が海に浮かんでいる。
また、五浦には岡倉天心ゆかりの六角堂が岩礁の上にあるが、朱塗りの堂が松の緑に映えて美しい。
磯原の海を見下ろして、雨情ゆかりの「磯原節」の民謡碑、「あの町この町」の童謡碑が立っている。
また、雨情の生家の近くに雨情会館があり、会館前の広場に雨情の銅像と「磯原小唄」の碑が立っている。
「磯原節」は、海岸の風情を主題とし、情緒豊かな唄である。
歌詞の「末の松並」は、雨情の生家から陸前浜街道を北に向かって約1キロのあたりにある松並木で、
このあたりは 末の松並木と呼ばれたところである。
雨情が遊んだ大北川からこの松並木を望むことができる。
「磯原節全国大会」は毎年12月第1土曜日に北茨城市で開催されている。
令和5年度民謡民舞少年少女東京大会 4・5・6年生の部 優勝 小泉拓真さん
写真:六角堂(観光いばらきより引用)
磯原節(歌詞)
〽末の松並 東は海よ 吹いてくれるな 潮風よ
風にふかれりゃ松の葉さえ おや こぼれ松葉になって落ちる
〽お色黒いも 磯原生まれ 風に吹かれた 潮風に
啼いてくれるな渚の千鳥 おや 末の松浪ゃ 風さらし
〽潮は引き潮 まだ月ゃでない 出れば東が白くなる
夜明け千鳥かあのなく鳥は おや 便り少ない声ばかり
〽波はどんどと小磯にうてど 打つは仇波音ばかり
風にゃさらされ波には打たれ おや 沖の磯石ぁひとりぽっち
写真:六角堂(観光いばらきより引用)
筑波山唄
筑波山唄は故金子嗣憧(かねこしどう)氏が作詞作曲をした茨城を代表する民謡。
筑波山は、関東東部、茨城県つくば市北端にある標高877mの山で、
西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)からなる。
富士山と対比して「西の富士、東の筑波」と称される。
その筑波山を唄った民謡で、その曲調はゆったりとして壮大。
愛好者もたくさんいて、毎年8月の最後の日曜日には「筑波山唄全国大会」が開催されている。
筑波山唄を動画で▼
写真:筑波山(つくば市ホームページより引用)
水戸盆唄
水戸市では昭和初期まで、昔のままの盆踊りが盛大に催されていたが
市の盆踊り唄には2つの系統があった。
1つは下市の銭谷稲荷を中心に踊られた盆踊り
もう1つは水戸の中心市街地が広がる上市の東照宮などの盆踊り。
これらの水戸の盆踊りは終戦後は姿を消し、唄も唄われず消滅の道をたどっていた。
神原一敬氏は、この伝統ある唄が消滅するのを惜しみ、復興に努め
まつもと重信に採譜を、本條秀太郎に編曲を依頼して曲節の整理を行った。
これが上市系の「水戸盆唄」の曲節である。
長い伝統ある唄で、「銭谷盆踊り唄」よりもなだらかに唄うところに特徴がある。
昭和30年代、40年代は、お盆の時期になると、
あちこちでこの「水戸盆唄」の笛太鼓が聞こえ、櫓の周りを踊り手たちが輪になって夜遅くまで踊っていたものである。
昨今は、各地区の夏祭りで「水戸盆唄」を唄い踊るところもあるが、
その地区地区で曲を作り、その曲で唄い踊るところもあり、「水戸盆唄」はあまり聞かれなくなってきた。
水戸盆唄を聞いてみる↓
水戸盆唄(歌詞)
【水戸盆唄歌詞】
〽男ヨ 伊達なら(コラショ) あの那珂川の(チョイサー チョイサー)
水のヨ 流れを(コラショ) アレサヨ 止めてみな(チョイサー チョイサー)
〽水のヨ 流れを(コラショ) 止めよじゃ止まる(チョイサー チョイサー)
止めてヨ 止まらぬ(コラショ) アレサヨ 恋の路(チョイサー チョイサー)
〽西はヨ つくばね(コラショ) 東は那珂よ(チョイサー チョイサー)
月はヨ お城の(コラショ) アレサヨ 大やぐら(チョイサー チョイサー)
〽踊るヨ 娘に(コラショ) 恋歌かけて(チョイサー チョイサー)
月にヨ とかせる(コラショ) アレサヨ ほおかむり(チョイサー チョイサー)
〽那須のヨ 与一は(コラショ) 三国一よ(チョイサー チョイサー)
男ヨ 自慢で(コラショ) アレサヨ 旗頭(チョイサー チョイサー)
〽水戸でヨ 名所は(コラショ) 偕楽園よ(チョイサー チョイサー)
雁もヨ わたるか(コラショ) アレサヨ 千波沼(チョイサー チョイサー)
〽水戸のヨ 盆唄(コラショ) 日の本一よ(チョイサー チョイサー)
天下ヨ とるよな(コラショ) アレサヨ バチさばき(チョイサー チョイサー)
〽踊れヨ 唄えよ(コラショ) 夜が明けるまで(チョイサー チョイサー)
響くヨ 太鼓に(コラショ) アレサヨ 月がさす(チョイサー チョイサー)
〽踊りヨ 踊らば(コラショ) しなよく踊れ(チョイサー チョイサー)
しなのヨ よい娘を(コラショ) アレサヨ 嫁にとる(チョイサー チョイサー)
〽唄もヨ 続くが(コラショ) 踊りも続く(チョイサー チョイサー)
月のヨ 明るい(コラショ) アレサヨ 夜も続く(チョイサー チョイサー)
【水戸盆唄 千波編】 (芝間美喜夫 作詞)
〽梅のヨ 偕楽(コラショ) お堀の桜(チョイサー チョイサー)
ホタルヨ 舞い飛ぶ(コラショ) アレサヨ 逆川(チョイサー チョイサー)
〽ここはヨ 千波の(コラショ) 太鼓が響く(チョイサー チョイサー)
踊れヨ 盆唄(コラショ) アレサヨ にぎやかに(チョイサー チョイサー)
〽響けヨ 朝まで(コラショ) 盆の笛太鼓(チョイサー チョイサー)
これがヨ 千波衆の(コラショ) アレサヨ 心意気(チョイサー チョイサー)
〽水戸のヨー 千波は(コラショ) 住みよいところ(チョイサー チョイサー)
厚いヨ 人情の(コラショ) アレサヨ 花が咲く(チョイサー チョイサー)
水戸二上り
「水戸二上り」は、節の細かい艶麗な曲風で、哀感の漂う美しい唄である。
水戸9代藩主徳川斉昭が好んだ唄であり、藩士にも広く唄われていた。
水戸城から弘道館への道中、大手橋あたりでよく口ずさまれていた、と伝えられている。
水戸の花柳界に入っては芸妓よって唄い継がれた。
「水戸二上り」は新内節系統の唄で「水戸二上り新内」とも呼ばれる。
歌詞が近江八景を唄っているものがあることから、この唄は近江が本場だと言われている。
これが茨城のものとなったのは、徳川斉昭が彦根藩から秀でた唄い手を連れてきて那珂湊に住まわせ、
「水戸二上り」になった、と伝えられている。
斉昭は、「磯節」とともにこの「水戸二上り」を大変好み、
家臣にも好んで唄わせていたそうで、武士たちがそぞろ歩きに口ずさんだ光景はさぞ風雅なものであったろう。
このように元来は野外唄であったが、その後三味線がつけられてお座敷唄となった。
『近江八景』
〽秋の月とは冴ゆれども 私の心は冴えやらぬ
堅田に落つるカリがねの ただ忘られぬが主のこと
なろうことならそばにいて 会いたい見たいと思えども
会わず(粟津)に戻るあの船は
あれが矢橋のマー帰帆かえ
『浮世荒波』
〽浮世荒波漕ぎ出てみれば あだやおろかにゃ過ごされぬ
浮くも沈むもみなその人の 舵の取りよとマー風次第
※「あだやおろか」は、「徒や疎か」(人の思いやりを無にすること)
と思われる
『水戸の偕楽』
〽水戸の偕楽梅どころ 白梅紅梅春を待つ
どこにいるのかウグイスの ホーホケキョと鳴く声に
初の姿が エー三分咲き
その他の歌詞
〽里を離れし草の家に 二人の他に虫の声
すきもる風にともし火の 消えてうれしき窓の月
〽悪止めせずとそこ離せ あすの月日がないじゃなし
止めるそなたの心より 帰るこの身が どんなにどんなにつらかろう