三味線について
芝間美喜夫のブログより転載しています
三味線の種類
三味線には大きく分けて、 『細棹』『中棹』『太棹』 という種類があります。
読んで字のごとく棹の太さで分けることができます。
太棹
胴体(太鼓)が一番大きな三味線が「太棹」です。その名の通り棹が太くなっています。
主に津軽三味線のことを言います。若者の多くの人から人気があります。
スピーディーに力強く、時には繊細に演奏しなければならないので高い技術が必要です。
何と言っても低く唸るような音は魅力的。
曲も自分で作曲し、即興で演奏することもあるため、ジャズに似た部分もあります。
絃楽器と打楽器の要素を持っている楽器とも言えます。
その他、「太棹」で使う三味線の代表的なものというと、人形浄瑠璃などで使われる義太夫三味線があります。
中棹
「民謡」や浄瑠璃の流れをくむ語り物の「常磐津」、心中などを哀調のある題材を扱う「新内(しんない)」などは
「中棹」の三味線を使います。
また、日本各地の三味線を演奏するお祭りでは、中棹が用いられることが多いようです。
箏曲・生田流で弾かれる地唄も、この中棹となります。
細棹
繊細で上品な音色の細棹の三味線はおもに長唄、端唄、小唄や俗唄などで使われています。
西ものの民謡も細棹で演奏します。
静かに、厳かに、お座敷に合うように演奏します。
三味線の歴史
今は日本の伝統楽器と言われる三味線。
そのルーツを辿っていくと紀元前の中国にまで遡る。
まず紀元前の中国、秦の時代に存在した「弦鞀(シェンタオ)」という弦楽器が時代と共に変化して行き、
13~14世紀頃の明の時代には「三弦(サンシエン)」と呼ばれる楽器になった。
三弦はその名の通り弦が3本あり、胴体部分は蛇皮が貼られていた。
14世紀末頃にこの三弦が交易によって琉球王国に伝わり、形はほぼそのままに独自に発展していったものが
今でもよく知られている「三線」である。
三味線は室町時代に琉球から伝来した三線(蛇皮線)を改造して創られた。
その百年後、琉球に音楽の天才、「赤犬子」が楽器の改良と多くの名曲を創り、琉球三弦の元を確立した。
そして永禄5年(1562)前後、貿易船によって大阪・堺、九州・博多の二つの貿易港に入った。
九州では沙弥仙、須弥山(それぞれしゃみせんと呼んだ)が盲僧によって演奏されたという。
一方、堺では手に入りにくい蛇皮の代りに犬や猫の皮を張り、三十年の研究期間を経て、
安土時代の初めには現在の三味線の基礎を確立した。
今日に残る最古の三味線は銘が「淀」と呼ばれ慶長二年豊臣秀吉の命によって京都の神田治光が作った。
江戸時代には名匠、石村近江の名作もあり、三味線は日本の弦楽器において最高の位置をしめるようになった。
その後、260年続く江戸時代という平和な世の中を背景に三味線は一気に広まっていく。
初めは都市部の上流階級が嗜むものだったが、やがては庶民階級、そして地方までにも広がり、独自の発展と遂げていった。
当時は三味線を弾けるものは異性から人気が出ると言われ、習い事として非常に人気があったとされている。
特に女性は三味線などの芸事に秀でると上流階級の家に嫁げる可能性すらあった。
また、三味線は盲人が生活のために演奏することも多くあり、特に盲官として出世するには三味線の技能は非常に重要だった。
瞽女(ごぜ)は、日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称であり、
津軽三味線のルーツは、新潟地方に居た瞽女の三味線が元ではないかと言われている。
津軽でも瞽女は芸をして回り、全盲の男性(ボサマ・坊さま)は、この瞽女から三味線を習ったと言い伝えられている。
ボサマは門付けをして回り、お金やお米などを貰って暮らしていたが、
各家を回り門の前で三味線を弾き、唄うボサマを蔑む者も多く、歴史的文献などにもその詳細は記されていない。
津軽三味線の第一人者、高橋竹山もコンサートの中で、そのボサマ時代を
「米を投げつけられたこともあり、つらかった」と話している。